最近、というかしばらく心理学を学びなおしているのですが、これがまぁ面白くて面白くて。
勉強すればするほど腑に落ちることが多く、そしてジャニオタ界隈というのは精神的に健全でいるのが難しいなと思うことが今まで何度もあったのですが、そうなってしまう理由を体系的に学ぶことにとても意義があるなと思っています。
突然ですが、アタッチメント障害という言葉を聞いたことがあるでしょうか。愛着障害とも呼ばれますが。
アタッチメント(愛着)というのは、乳幼児期に親が抱きしめてくるとか、そういうスキンシップで育まれるものとされています。
これが幼いころに上手く形成されないと、人間関係において難しいことが増えてしまうらしいです。
では、乳幼児期に上手く形成されなかった人は大人になってしまったら絶望するしかないのかと言えばそんなことは無く、大人になってからきちんと再形成することもできます。
私は正に再形成した側の人間だったと思っているのですが、それはただ単に運よくいい人たちに恵まれたというだけの話な気がします。大学で心理学を学び、友達も心理学を選んできた人だらけだったので、そのこともいい方向に影響していると思いますが。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、アタッチメントを成長してから再構築するには、自分を振り返ることが大事だと私は思っています。
例えば、心理学の用語で投影という言葉があります。投影というのは、自分の中にある衝動や性質を他人のものだと思い込んでしまう、というものです。(詳しいことが気なる人は、ググってね♡)
そこで私は考えました。
私は教師と生徒の恋愛もの(高校生と大人の恋愛含む)がかなり地雷なのですが、それはなぜだろうと。現在推しグループのメンバーが先生と生徒の恋愛を描いたドラマにでており、発表時からうわーと思いました。
倫理的に許されないとか、法律的にアウトだからというのは正論だし事実ですが、だからこんなにも嫌悪しているのかといったら、ちょっと感情的な説明がつきません。
私がこんなに教師と生徒の恋愛を嫌悪するのは、生徒に手を出す教師に嫌悪しているつもりで、その実自分の中になにかを投影しているのかもしれない。それを色々考えて、なんとなくこれだろうという結論が出たのでブログにまとめてみます。ただの学習の過程&長い自分語りです笑。
高校1年の終わりか2年の最初の方だったか、私は予備校を探していました。
私は両親からなるべく自分のことは自分で決めなさいと言う方針の元育っているので、進学や就職先に関して一切口出しされたことが無く、予備校探しも自分でいいと思うところを選びなさいと言われていました。
まずは代〇ミや四〇学院など、学校の近くの大手予備校の資料をもらいに行ったり見学に行ったりしていました。
その時、友達から彼氏がとある予備校に通っているという話を聞き、そこの予備校も見学に行くことにしました。名前はあまり聞いたことがない予備校でした。
予備校を検討している旨連絡してアポを取って、当日その予備校が入っている雑居ビルに行ってみたら、異様にテンションの高い、当時の私の素直な感性で言うとかなり気持ち悪い感じのおじさんが外で待っていて、説明するからマックに行こうと言われたんですね。
他の大手予備校は受付で資料をくれたり、受付横にある簡易応接用ソファーみたいな場所で説明をしてくれたので、何故マック?あまり大きな予備校じゃないみたいだし、応接室みたいなスペースが無いのかな?と思って近くのマックに行きましたが、その時点で私はなんだか怖いなと思いました。
何か飲む?おごるから好きなの選んでと言われたけれど、おごってもらって借りを作るのが怖すぎて、何もいりませんと断った記憶があります(今考えれば、マック側からしたら大迷惑笑)
おじさんは嫌な感じのハイテンションかつ早口で、全く面白くない恐らく本人にとっては冗談を随所に交えながら色々説明をしてくれていたのですが、他のお客さんの目はあるものの他の職員の目が届かない場所に移動してきて、知らないおじさんと2人きりというのが怖いし嫌で、ここだけは絶対にやめようと早々に心に決めていたので、明らかにつれない返事をして、早く切り上げようとしていたんです。
そしたら、「全員に紹介しているわけじゃないけど、予備校代が安くなる特別なプランがある。予備校代が安くなったら君のご両親はすごく助かるだろう。両親のためにも安くしたいよね?ただ、全員にというプランではないから他の人に聞かれるとまずい。カラオケ(密室)に場所を移そう」と言われたんです。
今の私なら多少の暴言を吐くなりしてバチクソに怒りながら予備校の上層部にチクると思いますが笑、当時の私は断るのが本当に怖すぎて、嫌ですと言えなかったんです。スーツを着た、男性の、40代くらいのおじさん。断って逆ギレしてきたらどうしようとかそんなことを考えていた気がするけれど、とにかく断るのが怖くてついていったんです。
カラオケ店はマックの数件先にあって、私はおじさんとマックを出てカラオケ店の店先まで来たんですが、断るのが怖いよりもこのおじさんとカラオケの密室に入るのが怖すぎて、店先で立ち尽くして泣いてしまったんです。
さすがのおじさんも慌てたしカラオケ店の店員さんは当然怪訝な目で見るしで、結局私はそこで帰れました。
帰宅するために小走りで駅に向かいながらお母さんに電話して、「怖かった」ということを泣きながら話しました。結局翌日父親が「娘が怖い思いをしたと泣いて帰ってきた。そちらの予備校には絶対に通わせない」と電話をしてくれました。
当時の私はクソ生意気な高校生で、誰しもに無難な態度をとりながらクラスメイトのことを見下していたと言ってもいいかもしれないです。
大学生とバンドを組んだり、ネットを通して知り合った年上の友達(女の子)もいたりして、同級生はテレビと好きな人の話ばっかりしてて子どもだな~とか思ってたと思う(嫌な奴すぎる)。
私の高校は通学路に露出狂が出たり、電車内で痴漢被害にあったり、駅前の駐輪場で2階以上に自転車を運ぶために急な坂を上る時、下から覗く覗き魔や盗撮犯がいたりして、性被害が日常にあったんです。下着売ってくれって声をかけられたり、渋谷とかまで出れば「イメージなんで写真撮らせて下さい」(イメージなんでってまじで何?)とつきまとわれたり。
私はそういうのを平然とあしらうこともできるし、年上の友達も私のことを対等に扱ってくれて、大人と何も変わらないと本当に思っていたんです。高校に通っていて、法律的にまだ未成年だけど、もう精神は大人だと。
でも、この一件で、私は親に守られている。自分でできないことに今まで気付かなかっただけで、できないことがきっと山程ある。私は大人の、特に大人の男性の思惑(?)を真正面からぶつけられた時、こんなにも弱い立場になるんだということ、私は全然大人と対等ではなかったことに気付かされたんです。
だから、私は高校生が教師(大人)とどうにかなる話が本当に嫌いなんだろうな、という結論に思い至りました。
幸せに楽しく高校生らしい高校生活を送った人は、高校生はもう十分大人だと思うのかもしれない。私もこの一件が無ければ、青春特有の謎の万能感を持って、自分はもうすっかり一人前だと勘違いしたままだったと思うし。
だからドラマで、女性教師が男子生徒のことを、授業中誰の事を話しているのか分からないようにして褒めた時には本当に嫌な気持ちになった。好きな教師からこんなこと言われてしまったら、そりゃ高校生はメロメロ(死語)になっちゃうでしょ、と。大人にはそれが分かる。分かっていて言うことが出来る。対等ではないです、全く。経験値も成熟度も違う。
もう一つ、私はあらゆる性被害を高校生の時から受けてきたけど、誰も警察に行っていいなんて教えてくれなかったんです。
露出狂は毎年のように出るのに、先生だって「気をつけろよー」くらいで。通報して警察に助けを求めなさいなんて言ってくれなかった。
電車で痴漢にあった時も、友達同士で話して「本当最悪だよね」「元気出しなよ、忘れよ!」みたいな話をして終わりだった。性被害が日常過ぎて、警察に行っていいものだと全く思ってなかったんです。
世の中には一定数の変態がいて、そいつらのことはもうどうしようもない。事故にあうようなもんだと。でも、学校に指定された制服を着て、学校に通うために電車や自転車やバスに乗ってるだけなのに、性被害に遭うのが仕方のないことなわけがないじゃないですか。
そういう判断もできていなかったことも含めて、やっぱり高校生の時の私はどれだけ自信があろうと、年上の友達と付き合っていようと、しっかりしていると周りの大人に言われていても、圧倒的に子どもだったんだと思うほかないです。
もちろん精神の成熟度には個人差があるけれど、少なくとも成人以下は子どもとして定められている。その守るべき対象の子どもをどうにかしよう、どうにかなろうなんて、考えられない。
そういう思考が働くんだと思います。
だから、子どもに手を出す大人を見て憎む気持ちも当然持ちながら、でもその中にあの時のおじさんへの怒りや恐怖が多分に含まれているんだと思います。
あと、私の学校には元生徒と結婚した教師がいて、その先生はめちゃくちゃ不愛想でずっと不機嫌ですぐ怒鳴ったり舌打ちするような怖い先生で普通に嫌いだったんですけど笑、アイツがそういう目で生徒を見たことがある事実を想像したらめちゃくちゃ気持ち悪かった、というのも影響してるかもしれません。実際にどういう経緯で結婚したかは知りませんが、そう思う教師がいるというのをリアルに想像した時点で大分気持ち悪かったです。
SNSとかで赤の他人である芸能人の不倫に烈火のごとく怒る人がいるけど、それって自分が恋人や配偶者に裏切られたり悩んだ経験や、悩んでいる母親を見て育ったとか、そういう経験を投影していることも多いんだろうなと思うわけです。
憎い赤の他人への怒りは、大抵多分自分が負わされた傷の責任を誰かに求めたいんだろうなと思います。
大事なことは、自分の中にある傷付いた経験や抑圧された感情が赤の他人に向いているかもしれない、と気付くことだと思います。
自分を傷つけた人と似たような存在の赤の他人をどれだけ攻撃しても、救われることはないです。自分は守られないし、癒されない。
自分の中にいる傷付いた自分を自覚して、その傷を治療したり受け入れるという作業をしない限り、赤の他人に突然怒りをぶつけることを繰り返す自分と、赤の他人に必要以上に叩かれる誰かが延々と生まれるだけです。
まずは、自覚する。
アタッチメントも、自分のアタッチメントスタイル(必要以上に不安になってしまうとか、必要以上に人との関わりを排除したくなってしまうとか)を把握して、自分はこう思ってしまいがちなところがあるんだと自覚するだけで、だいぶコントロールできるようになると思います。
なんだか想定よりかなり長くなってしまったのでこの辺で終わりにしようと思いますが、色々と勉強することで、なんとか今より少しでもいい人間になれたらいいなと思います(?)