カーテンコールの拍手を終えた後、しばらく放心状態だった。
「素晴らしい」という言葉以外でどう表現したら良いのか分からなくて、帰宅しながら私は果たして感想ブログが書けるだろうか、この素晴らしさを言語化なんてできるんだろうかと考えながら電車に揺られた。ずっと、夢見心地だった。
でも、この感動を文字にせずにいたら、きっとゆっくりと記憶は薄れていってしまう。だからこれを読み返せば何度も新鮮にこの感激を思い出せるように、今このブログを書いています。
東京芸術劇場プレイハウス
私は初めてお邪魔しましたが、素晴らしい劇場でした。
空間を贅沢に使っているステージ。奥行もあるし天井も高く、大きくひらけている。
オーケストラピットが舞台奥、レンガの壁の金網の向こうにあって、とても雰囲気があって素敵。
1番最初にオケが鳴った時、思わずわぁっと声をあげそうになった。音響がとてもいい。
持ち前の強運を発揮してまたしてもかなり前で観劇させていただいたんですが、俳優陣の生の声も良く響く会場だったように思います。
今後、何かご縁があって東京芸術劇場プレイハウスで他の演目を見る機会があったとしても、ここは私にとって「GYPSYの場所」になりました。
理想を押し付けられて舞台に立つ子どもたち
ローズのような人生を歩みたい、と思う人は恐らくあまりいない。
子を学校にも通わせずステージに立たせるために周囲のことは考えず突っ走り、父親の誇りとして飾ってある勤続50年の純金のプレートを勝手に持ち出して旅の資金にし、自分のやりたい演目のために道中男の子を自らの一座に引き入れるためにさらい、経験が給料だとお給料は渡さず、レストランでは食べきれなかった料理とともにお店の銀食器をなんの躊躇いもなく持ち帰る。「私のやり方にいつになったら慣れるの?」と、悪びれもせず。
両親に捨てられ、結婚は3度失敗、スターになることを期待して育てた娘は駆け落ちをして姿を消すし、恋人にも愛想を尽かされる。
でも、ローズは決して不幸じゃない。強気で、傍若無人。
どこに行っても、誰を失っても、彼女は自分の望むまま、生きたいように生きている。
そんな彼女の異様なまでの情熱と前を向く力に、私は圧倒された。
ローズは異常な人だと言っていいと思うし、母親としても欠落している。
例えば、演目のために子どもたちを永遠の10歳として扱う。
誕生日のケーキに立てるロウソクは一昨年も去年も今年も10本。
子どもたちの身長がすっかり伸びた後も「あの子たちはまだ子どもよ」「寝かしつけなきゃ」と言う。
ローズ一座の演目のセリフに身長が含まれていることの効果は大きい。
最初は99cm、次は157cm、そして162cm。
同じ曲で身長が伸びていくことで、時間の経過と演目に無理があることがありありと分かるし、ジューンが駆け落ちした後さらに身長が変わることで、ジューンの代わりをさせられるルイーズが強調されたように感じた。
(調べてみたら、99cmは現代日本でいうところの4歳児の平均身長でした。)
ハイティーンにさしかかろうかというジューンが「本当は何歳なの?」と聞かれて、元気に「9歳!もう少しで10歳になる、9歳!」と答えるシーンでは、その異常さにゾッとしてしまった。そんな嘘、押し通せるわけないのに。
実際ルイーズたちは今自分が何歳なのか、わからなくなっていたそう。(GYPSYは実話をもとにしたお話で、実在の人物の話です)
ローズ一座の子どもたちは、こうであって欲しいというローズの理想を押し付けられてステージに立っている。
彼らはその役目を全うしようとする。ローズから望まれていることと、お金を稼がないといけないというのが理由になっていたのだと思う。特に、幼い頃から「そう」であったということは、子どもから判断力を奪っただろう。
でも、実の所ジューンの内面はもうすっかり大人で、ローズに言われた通りの9歳として振舞った後、母親を見る目のなんと冷静で辛辣なことか。(ジューンの「いやするね」「いやしないね」のところ、とても好き)
タルサも同じく中身はもうすっかり大人で、自らの実年齢に合ったショーの構成を考えている。ジューンもタルサも、ローズの前では従順な子どもを演じながら、もう既にローズの言いなりの子どもではなくなっている。
対して、姉であるルイーズはまだ子どもだった。ローズの言葉を無垢に信じ、言われた通りに動く。
そこに本人の夢や目標はない。ルイーズはからっぽのまま、舞台に立っていた。だからスターとして扱われる妹のジューンに嫉妬したりしない。
ルイーズはタルサに淡い恋心を抱いていたようだった。
ルイーズの誕生日にみんなからプレゼントを受け取った後、まず初めにローズからもらったヤギの人形を嬉しそうに抱きしめ、嬉しそうにそして大切そうに包装されていないタルサからもらった本を手に取って胸に抱く。
今はホウキのタルサの相手役に、タルサの想い人になれたらどんなに素敵だろうと合わせて踊る。けれど、具体的に行動を起こしたのはそれくらいで、思いを打ち明けるつもりもなさそうだった。
ジューンとタルサは、ローズのわがままでチャンスを失ったことをきっかけにローズとの決別を決心し、駆け落ちという選択肢を選ぶ。その他の少年たちも同じく自分たちの演目をつくりローズの元を去る。
ローズの元でローズの言う通りに演じてきた子どもたちは、自分自身の役者としての夢という、ローズによる「母親の呪い」を解く力を既に手に入れていた。
自分の夢を持たないからっぽのルイーズだけが、ローズの元に残る。
一座のみんながジューンとタルサの駆け落ちを知っていて離脱の準備を整えていたのに、ルイーズだけが置手紙でそのことを知ったということから考えても、ルイーズは他の団員たちとは「違った」んだろうと思う。
幼い頃からジプシーのようにあちこちを転々とし、ジューンの脇役として生きてきたルイーズが渇望しているのは、あたたかい家族との生活、特に母親からの愛だったのだろう。
ハービーとローズ
ウィチタのバーレスクでローズに「結婚しない?」と言われて大喜びしていたハービーは、結局ローズの元を去る決断をする。
ローズが結婚を口に出したのは、恐らく時代の流れによって希望が持てなくなってきたからだろうと思う。
トーキー映画の台頭や不況等の理由が重なって、ボードウィルの終焉が見えてきてきていた。生活が困難なほどの状況に追いやられ、あの強気なローズが「私たちは最後までやりきった。それは誰にも否定できない」と諦めにも似たセリフを言う。
そしてこのセリフの後にローズから出てくる言葉が「結婚しない?」だった。
ローズにとっての結婚は、恐らく諦めのその先にあるものだった。
あれだけ結婚に浮かれてたハービーが一瞬でローズの元を去る決断をしたのは、自分との結婚をないがしろにされたのが原因だと思うし、「僕になにを望む?」の問いに「あらゆることよ」と答えたローズに「ひとつでいいんだよ」と言い残したのも本心だと思う。「誰も君を妻にできない」。これも真理だと思う。ローズがハービーを必要としていたのは、パートナーとしてだけではなく、子どもたちのエージェントとしてという側面が大いにあった。
私はこれまであのローズを受け入れてきたハービーがここで去っちゃうんだ!?って最初は衝撃だったけれど、よくよく考えたらジューンは「あの人はただのエージェントよ」と、お世話になってるはずなのにハービーに対して随分と距離を取った見方をしていた。でもルイーズと「ママが結婚したら」を歌っていて、結婚したらママが落ち着くかも、という理由で母親との結婚に期待している様子もあった。(「ママが結婚したら」、お2人とも本当に最高でした)
ここでさらにハービーとローズが惹かれあったシーンまでさかのぼって考えてみると、2人は「子どもが好き」というところで意気投合している。
強烈すぎるほどに子どもたちをスターにしようと奮闘しているその姿に惹かれたハービー。あれだけ最初はバーレスクの舞台に娘は立たせない!と激怒していたローズが、「ギャラをはずみなさいよ」とバーレスクの目玉として子どもを売り込む、しかも自分との結婚式をないがしろにして、というこの2点が、ハービーに別れを決断させた理由だったのかもしれない。
ハービーはローズが持つの強烈な母性に惹かれていたけれど、それ故に自分がローズの中で優先順位1位に立つことは決して無く、バーレスクの目玉という一線を超えたことも手伝って、長年の愛情が一瞬にして冷めてしまったのかもしれない。
ただ、ジューンの「あの人はただのエージェント」という言葉を重要視したとしたら、ハービーの中のローズへの愛情の中に「1番下の妹ももう巣立ってしまった。自身の生きがいでもあった、子どもへ愛情を注ぐ環境にまた身を置きたい」というハービーのエゴも詰まっていた可能性はある。エージェントは胃を痛めてしまうと1度辞めたのにまた復帰したことに、1番下の妹が手を離れたことは無関係ではないだろう。ジューンはそれをなんとなく感じ取っていたのかもしれない。
でも、そんな態度をとるジューンに「君のお母さんを愛してる」ときちんと向き合おうとしていたハービーは、やっぱりGYPSYにおける良心だったように思う。
このバーレスクでの出来事がローズ&ルイーズ親子崩壊の始まりであり、ジプシー・ローズ・リーの誕生に繋がっていく。
ジプシー・ローズ・リーの誕生
不況の中、バーレスクで生きるテッシー・マゼッパ・エレクトラの力強さは、ルイーズに大きな影響を与えた。
「ストリッパーに必要なのは才能がないこと」と話していたテッシーは元バレリーナ。元々ストリッパーになりたくてなるという人はおらず、みんなが何かしらの夢破れてバーレスクに流れ着くのだろう。
最初あれだけバーレスクに娘は立たせない!と激怒していたローズが、最終的には自身の結婚をないがしろにしてまで交渉を行い、代打の目玉として娘をステージに立たせる。
そして「子ども」ではなく「女性」として初めて舞台に立つことになったルイーズは、自身の姿を鏡で見て「ママ、私可愛い女の子だよ」とつぶやく。誰かの付属品ではない、自分。
そして幼いころから長年歌ってきた歌をバーレスクで歌う。
おどおどしながら歌う様子がみるみる変わっていき、次第に大がかりになる舞台に立つ様子を次々と見ていると、それこそ「エクディジアスト」という言葉がしっくりくるような、脱皮、つまり変化の様子が見て取れる。(本人は劇中のセリフにあった通り、ストリッパーとは一線を画すという意味合いを込めて使っていたそう)
舞台に立ち、客から求められるという経験が、ルイーズの中に自我を芽生えさせた。
ルイーズはジプシー・ローズ・リーとしてすっかりスターになった。
専属のメイドがつき、輝かしい宝石やドレスを身にまとい、豪華なドレッサーに自分の顔を映すルイーズは、間違いなく成功を掴んでいた。
ステージで掴んだ栄光は、ルイーズに豊かさと自立を運んできた。「いい時も辛い時も楽しんでいる」「自分の人生を生きている」というセリフもあった。
ただ、栄光とともにルイーズにとっての心の底からの幸せは訪れなかったのかもしれないとも感じた。
「誰も私を笑わない。だって私が最初に笑うから!」というセリフが印象的だった。
痛みを抱えながら、スポットライトに照らされて生きる。それがジプシー・ローズ・リーというスターだったように感じた。
ローズの出番
「働いて努力して必死になってやってきた。全部何のためにやったの?私は何のためにやったの?」
と娘に激昂する母に、娘は
「私のためだと思ってたよ、ママ」と答えた。
栄光を手に入れたルイーズは、母親の呪いをすっかり解いてしまっていた。娘は自分の言うことを聞かないどころか、母であるローズを楽屋出禁にする。
衣装のことも演目や方向性のことも、全て自分で決めてしまう。ローズは何もやらせてもらえない。
「ローズの出番」というナンバーがGYPSYの目玉であり、それをありとあらゆる感情を煮詰めて凝縮して歌い上げたのが大竹しのぶさん。
ローズという主人公にあの情念と呼びたくなる、地の底から沸きあがるような大きな感情を与えられる女優さんが、今の日本にどれだけいるだろうか。大竹しのぶさんが、とにかく凄かった。怖くて恐ろしくて、でもとんでもなく魅力的だった。
私は幼いころから父が大竹しのぶさんがテレビに出るのを見るたびに「大竹しのぶはものすごい女優だ」と言うのを聞いて育ち、今回初めて生で拝見し、私は父の感性を色濃く受け継いでいるなと思った。
私が本や映画を見た感想を詳細に父と語り合ったような記憶は一切ないのに、私が父にお勧めする本も、私が父からお勧めされる本もお互いによくフィットする。大竹しのぶさんのあのローズに大感動し、改めて私たちはよく似た親子だなと思った。
ローズの出番というナンバーの歌詞をパンフレットで改めて読んでみる。
中盤に苦悩を歌い上げるシーンはあるものの「才能があるのよ 私には いいでしょ?」
「ここから私の出番」
「さあ みんな 道をあけて やってやるわ 完璧に 今度こそ私のもの」
と、ローズの自信に溢れた歌のように見える。
ローズの出番の曲中にはママを連呼する歌詞が含まれている。
「ママが見せるから」という歌詞もあるように、序盤のママは間違いなく自分を指した一人称だと思われるけれど、私は次第に連呼される「ママ」が自分の一人称なのか、自分の母親をさした「ママ」なのか分からなくなっていった。
ローズの母親は、ローズを捨てて出て行ってしまった。
ルイーズとジューンは母の呪いに縛られた子どもたちではあったけれど、結果的にルイーズはジプシー・ローズ・リーとして名を馳せ、ジューンも後に女優となった。
もしもローズに、うちの子には才能があるのよ!と売り込んでくれる母親がいたら。信じてそばに居て支えてくれる母親がいたら。
ローズ自身も、実は母に捨てられたという大きな呪いを解けないまま、そのエネルギーをステージのスポットライトの中に燃やし続けることで生きてきたのだということがありありと伝わって、私はどうしようもなくなって、泣いた。
そして「バラ色の未来 私に」という歌詞で締めくくられ、ローズの観客のいないショーが終わる。
ルイーズが「きっとお母さんは何者かになっていたよ」と伝えるも、その答えとしてローズは「なれるならなっていた、それがショービジネス」と答える。
ローズがスターになるのに、「生まれるのが早すぎて、始めるのが遅かった」のは事実だろう。ショービジネスに運やタイミングは重要だ。でも、もしも本当に溢れるほどの才能があったら、例え少しばかり始めるのが遅くても人々は魅了されるということを、実はローズはよく理解していたのだと思う。ローズは恐らく、自分が今からスターになれるとは考えていない。ローズが人生をかけて見てきた夢は、破れたのだと私は思った。
そして娘たちをスターにしようとしたのは「自分のためにやった。認めて欲しくて」と素直に娘に伝える。
するとルイーズは「私が認めて欲しかったのと同じ」と答え、「大丈夫よママ、大丈夫よローズ」とまるで母親のように母親の背中をさする。
私はこれを見て、ああ赦されたみたいな気持ちになった。上手く言えないけど。
夢や希望を抱き、それに向かって邁進するのが人生において素晴らしいこととされていて、成功は褒められ、認められ、羨まれることだと思う。
でも、人生をかけて叶えようとした夢破れたとしても別に全然ダメなんかじゃないな、と。世間からの賞賛が得られなくても、3度結婚に失敗しても、娘が駆け落ちして出て行っても、恋人が去っても、ローズの人生はダメじゃない。
決して良い母親とは言えないローズに、ルイーズは手を差し伸べることを選んだ。ローズは良い母親ではなかったけど、子どもたちに手をかけて時間を割いて、いつもそばに居てくれる母親ではあった。それは、ローズが自身の母親に求めていたことだったのだろう。
娘に毛皮のコートを借りて「私の方が似合うんじゃない?」と言うローズを見て、そうだよな、ここでポキリと折れてしまうような人じゃないよな、と思ってくすりとした。
「同じサイズの服が着られるなんて面白い」と言うローズ。しばらく前から、服のサイズは同じだったはずだ。ハイティーンの娘たちを長年小さな子どもとして扱ってきたローズが、我が子を「大人」として認識した瞬間だった。
娘たちは、これからもステージに立つ。ローズはこれからどんな人生を送るのだろう。同じドレスを着て、同じ夢を見るだろうか。私は事実がどうだったかを知らないけど、少なくともセーターをずっと編んでるような人生は送っていないだろう。どんな境遇でも、ローズはきっと前を向いて逞しく生き抜く。
佐々木大光asタルサ
私のブログを見て下さる方は7 MEN 侍のファンの方が多いと思うので、最後に自担でもある大光くんについて触れたいと思います。
私を知ってくれている方はご存じだと思いますが、私は自担のことになると突然語彙力を失ってしまい(他メンバーについての方がよっぽど饒舌に語れる)、何も言えなくなってしまうという習性を持っているのですが、例にもれず今回もそうでして……
なので、順を追って思ったことをそのまま書いておきます。後々の自分の回顧の為に。
最初、上手側に突如登場した大光くんにずびびびびびと視線が吸い寄せられて、謎の緊張感で呼吸が止まった(あまりに不審者で申し訳ない)。
本当にタルサとして舞台に立ってる、凄い。
造形が綺麗だな、ひいては存在が綺麗だな、ステージに立つことで大光くんのスタイルの良さはより生きるな、と思ったりしながら、なんとか呼吸を整えた。
舞台に立つ人として、スタイルが良いというのは素晴らしい才能のひとつだなと改めて思い知らされた。
子どもから大人の一座に切り替わるところ、なんて長い手足がよく動くんだろう!と思った。笑
ユニゾンで歌っていても、聴き慣れた大光くんの歌声がよく耳に入ってきた。
セリフを聞いて驚いた。
学ななの時の感想でも発声がより自然になったみたいなことを書いた記憶があるんですが、それがさらにさらに進化していた。
セリフの発声に関して残っていた小さな違和感が、大光くんの声質の良さを失わないまま全て綺麗に無くなっていた。
舞台用というかセリフを言う用みたいな感じが一切なくなっていて、ここでまず大光くんの進化を感じて、大きく感動。
そしてもちろん最大の感動ポイントはタルサの見せ場である「彼女さえいれば」。
セリフの発声も歌も、物凄い進化を遂げていたと思う。大光くんのコメントで「ローを響かせて歌いたい」とあったけれど、歌にもセリフにもその意図がきちんと伝わった。
でも佐々木大光を語る上で何よりも欠かせないのは、やっぱりダンスだろうと思う。
あ、ちょっと話が逸れてしまいますが、私は砂塚さんの演技が素晴らしかったなと思っていまして。歌やダンスが演技と違和感なく地続きな感じがしたし、魅せ方がすごくチャーミングだった。本来はガッチガチに細かく動きが決まっているであろうところ(特に大人数でわちゃわちゃ動く「ミスター・ゴールドストーン」)も全く無理が無くて自然で。元夢の国のダンサーさんだったと聞いて、とても腑に落ちました。
大光くんは、これまでミュージカルや外部舞台の経験があまりない中での大抜擢だったと思うけど、やっぱりダンスの実力がしっかりないとあの「彼女さえいれば」は成り立たなかったと思う。
あまりにもこれまで見てきたダンスと違うジャンルのダンスだったことで、これまでたくさんの大光くんのパフォーマンスを見てきたファンとして、どれだけこの舞台のために努力を重ねてきたのかが透けて見えた。
多分大光くんが元々得意なのはいわゆる重心の低めのダンスだと思うけれど、彼女さえいればの特にワルツのシーンでは、良く言われる「頭のてっぺんにある糸が上に引っ張られている感じ」が見てわかる程の美しい姿勢のクラシックなダンスで、アイドルとして全く違うジャンルの歌・ダンス・演奏・ラジオ・各種バラエティ・雑誌撮影等様々な種類のお仕事を並行しながらトレーニングを重ねて、この舞台にどれだけ真摯に向き合って情熱を注いだんだろうと思ってたら泣いてしまった。(安定の涙腺激弱)
まだ若いし伸び代はあれど、百戦錬磨の共演者さんたちに囲まれながらあれだけの素晴らしい舞台の見どころのひとつを任され、それをスキルできちんと成立させた大光くんは、素晴らしかったと思う。
出来栄えが素晴らしかったというだけではなく、成長・進化という観点から見られるのはファンならではの目線かなと思います。
最後に
GYPSYという舞台は、私の中の色々を変えてしまった。
これを言語化するのはとても難しいのだけれど、GYPSY以前と以後で、私の考え方が変わったように思う。
私は間違いなく佐々木大光のファンであり、大光くんが出るからこの舞台のチケットを取った。これは間違いなくそう。
でも、この舞台を見て、絶対に「大光くんがかっこよかった」という感想はツイートしたくないと思った。
大光くんがかっこよかったのが本当にただの事実でしかなかったとしても、あの舞台を見て「大光くんかっこいい」という感想が真っ先にくるのは、(私の中で)それは嘘だなと思った。
自担が出るから見に行ったけど、自担が出てるということ以上に素晴らしいことが山ほどあって、そんな素晴らしい舞台に立っている自担をより好きになる、という感情の構造だった。
これだけ真っ当に努力したことに対して、正しく評価したいと思ったんですよね、なんか。評価っていうと随分偉そうで私の気持ちとしっくり来ないのに、他に適切な言葉が見当たらなくて使ってしまうけれど。
アイドルとしての大光くんが好きだしアイドルの大光くんを応援しているけれど、タルサのことをアイドルとして見るのは、私の中では違うな、みたいな。
(別に私と違う考えの人がいても大丈夫です、みんなが同じである必要はないので)
今回これだけの努力の成果を目の当たりにして、大光くんが1番頑張ったこと、見て欲しかったことって「かっこいいかどうか」ではないだろうと思ったりもして。
いや、かっこよさにはこだわってたと思うよ、減量もとても頑張ってたし。実際見た目に変化もあった。
ただ、エンターテイメントを享受する1人として、アイドルファンだからといって安易に「かっこよかった」では済ませず、きちんと作品と努力の成果を見たいなとそう思いました。自担が真摯に向き合ってることに対して、私も真摯に向き合って鑑賞したいと強く思った。これが舞台だろうとライブであろうとなんであろうと、会いに行くことではなく、そういうところを見るために私はお金を払っていきたいです。
だからこそ出てくる気持ちもあるとは思うけど、かっこよかったからまぁ良かったとして受け取って終わりにしたくないなーみたいなことを思ったりしました。なぜなら、どんな立場の人がどんな考えを持っていようと、私はアイドルである彼らの舞台にとても期待しているからです。
GYPSYを見て、上手く言えないけどそういう気持ちになりました。まぁそのうち考えは変わる可能性もあるけど、頭で考えて、自分の倫理観と照らし合わせてそうしようと思ったのではなく、作品を見てそういう気持ちになったのは初めてなので記録として書いておきました。
再度言いますが、私の考えと同じである必要はありません。私と違う考えの人を否定するつもりもありません。各々好きな楽しみ方で素直に楽しんでください、私もそうします。
最後の最後に、大光くん21歳のお誕生日おめでとうございます。
私は1年前の誕生日に怖いくらいの長文ブログを書いてまして笑、それを今回読み返してみたんですが、この1年で恐らく大光くん自身が大きく変わったことで私の見方や大光くんに抱く印象も大きく変わったなという感じがしています。
末っ子のかわいらしさが無くなってしまったわけではないけれど、簡単に言うと「みんなが幸せでいてくれたらいいなっていう願いを掛けてる人」から、「メンバーを幸せにできる人」になったなーみたいなことを思っています。
引き続きダンス・歌・演奏の高いスキルでパフォーマンスのクオリティをあげてくれているし、全体のバランスを取るだけではなくて、自分のスキルを前に押し出すこともここ1年で増えたし、Jr.CHAMPみたいな場所で優勝を勝ち取ってきたり、ドラムで優勝してきたりもするし、ライブの演出や構成や振付を中心で担っている話もよく聞いたし、最近は特にバラエティでの振る舞い方に大きな変化を感じる。
相変わらずメンバーのことをよく考えていて、だからこそグループの一員である自分がどうあるべきかみたいなことをきっとすごく考えているんじゃないかなと感じることが多かった。
20歳を迎えて、さらに頼もしい人になった。
私は自担・自軍を応援する上で成長や変化を楽しむタイプのオタクだなという自覚があるので、大光くんのファンでいることと7 MEN 侍のファンでいることが、私の毎日を楽しいものにしてくれているなと本当に思います。
さて、今年も怖いくらいの長さになってしまいましたので笑、いい加減終わりにします。
大光くんには、素晴らしい舞台と出会わせてくれてありがとう!!と心の底からお礼が言いたいです。
間違いなく、私の人生に刻まれたミュージカルになりました。
素敵な21歳を過ごしてください。今日も生きてくれてありがとう。明日も生きてね。